平野遼 『樹根』 50号 1959年作の商品情報

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平野遼 『樹根』 50号 1959年作 の落札情報

平野遼 『樹根』 50号 1959年作の1番目の画像
  • 落札価格:
    1,500,000
    入札件数:
    1入札履歴
  • サイト
    ヤフオク!
    残り時間
    終了
  • 開始価格
    1,500,000円
    入札単位
    1,000円
  • 数量
    1個
    商品状態
    中古
  • 開始日時
    2015年12月29日 23時37分
    終了日時
    2016年1月6日 9時33分
  • オークションID
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  • 平野遼 『樹根』 50号 1959年作の1番目の画像

商品説明

『青い雪どけ』に並ぶ代表作です。
実際に美術館に展示されていた作品です。
入手当初私は『抽象画』だと思っていました。
関連する文献を調査していく中で『乾上った川底』を描いた『具象画』だとわかりました。


【下記文献掲載作品】
1977年 小学館 『平野遼 自選画集』13頁
『樹根』1960年として掲載
1991年7月
東京セントラル美術館『平野遼展』~光と線の交響~図録18頁
『冬の樹』1959年として掲載

作品裏面にも画題を変更した形跡があります。

【『樹根』のエピソード】
美術の窓1986年12月号No51 巻頭
平野遼 滅亡の淵からのメッセージ
平野遼は大正14年生まれだから今年で満61才になる。
産まれたのは大分県だが生後しばらくして北九州の八幡に移り、八幡で育った。
八幡というと八幡製鉄(現在の新日鉄)の本拠地で、明治以降の日本近代化の象徴といえる鉄の街である。
ここで育ち、近代化の悪の部分を見据えたところに、平野遼の世界の原点がある。
大正14年に生まれたということは、昭和の年がそのまま、その年齢になる。
平野遼は、昭和という時代のマイナス部分の一切を背負って描きつづけてきた。

昭和とは、どういう時代だろうか。
4年の大恐慌。
6年の満州事変。
11年の2.26事件。
16年の真珠湾攻撃で第2次世界大戦に参加。
20年8月15日無条件降伏。
飢えと米軍の進駐。
街には売春婦があふれた。
26年朝鮮動乱が勃発。
徹底解除したはずの軍隊を警察予備隊として再編成。
特需景気で復興の第一歩を踏み出す。
しかし28年のスターリン暴落。
30年からの神武景気。
34年には皇太子と美智子妃の御成婚。
初めての平民出の皇太子妃であった。
経済は復興繁栄の一路をたどった。
47年に田中角栄が首相になる。
日本列島改造論で凄まじいインフレ。
この景気のピークに石油ショックが起こった。
田中角栄は、その後ロッキード事件の被告となり、留置された。
元首相が刑事被告人となる前代未聞の出来事であった。
危機に瀕するかと見えた日本経済は再びそれを乗り越えて、現在1ドル150円時代という高値である。
GNPは世界2位であり、アメリカ、ヨーロッパ各地に現地工場を組み立てて、現地の金融資本を買収するありさまである。

この昭和史の変転定まらない中に、平野遼という一画家が、敗戦後10年の漂白の人生を送ったのち、北九州市小倉に閉じこもり、ひたすら人間存在の原点を凝視し続けてきた。
19世紀末にボードレールは『このままでは必ず人間は滅亡する。
世界が存在しうる理由は、唯一つ、世界が現在、生存していることだけだ。
それに比べて、滅ぶべき理由は、無数にある』という意味のことを綴った。
平野遼も同じ、人間存在の危機を描いてきた。
世界が崩壊する時まで絵筆を離さないと言いながら。

散歩のかたわら、川の底に堆積した塵芥の中に、人間の姿を凝視し、
また『樹根』の群れに人間の姿を凝視し

人間崩壊の中から復活への祈りをこめて、メッセージを発信し続けてきた。
ファーブルが、昆虫を凝視したように、芸術家は人間を凝視しなければならない。
そこに見えてくる形が、いかにも異形なものであっても、それもまた人間の姿であり、それもまた人間の姿であり、それを芸術家は信じなければならない。
凝視したものを信じることころから、初めて復活への道が開ける。
それ以外のあらゆる方法論は、安易な堕落への道ではないかと考えながら。

【『樹根』のエピソード】
小学館 平野遼 自選画集 昭和52年4月1日 巻末(原文のまま)
後記
この画集に収録した作品の多くは、敗戦の荒涼とした風景が背景となっている。
寒々とした日々と酷薄な飢えが日本全体を覆っていた。
そのことを抜きにしては、これらの絵を見ることは私にはできない。

巻頭の小品≪笛≫は、焼跡に坐って靴磨きの戦傷者が客の来ない合間に尺八を吹いている場面である。
私の稚気が彼に三角帽子をかぶせたものである。
1949年から58年頃までは水彩とデッサンが主要な作品となっている。
この頃は放浪中で、落着いて制作する場所もなかった。
悪条件ばかりが重なっていた。
私は移動するたびに描きためたデッサンを焼き捨てて歩いたものだった。
言ってみれば臥薪嘗胆の時期であった。
昼間から雨戸を閉め、暗い部屋で電気をつけて描いていた時があった。
なぜそんなことをしたのか、理由はいまも解らない。
外に出ると、乾上った川底にめりこんでいる石や木片を描いて歩いた。
泥道がつくり出す形を凝視し、『樹根』に魅かれていた。

砲台跡のらくがき、造兵廠跡の壁のシミなどをくり返しみつめていた。
私はこれらを、あたかも古代人の壁画を見るような感動をもって接したものだった。
『芸術家は、眼に見えるものを超えなければならない』と言ったのはクレーであったが、この有名な言葉を知るずっと以前から、私も見えないものを見るように見えるように描くことを考えていたように思う。

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